心の柱 〜屁のツッパリはいらんですよ〜
『人を動かす』と『道は開ける』。
ディール・カーネギーの1900年代初期、ベストセラーとなった書籍で、
現代の自己啓発本の大元となっているものらしいです…。
読みました。
前者は、『人とのコミュニケーション』の方法を、実例を上げて非常に解り安く論じていました。
他人の気持ちになって考え、人を敬いましょう…と。
後者は、『悩み』の解決方法を前者と同様に実例を上げ簡単に。
差し迫った今日の事だけ考え、過ぎた事を悔やんだり、明日以降の事を思い悩んだりするのは止めよう…と。
非常にいい勉強になりました。
っても、読んだその日から自分が180度変われる訳はありません。
ふとした時に『ムムム…、こんな時には…』と、物事をふるいにかけるときの、良い網目になったり、
自分の言動の選択を助けてくれるんじゃないかなぁ…と思ってます。
ある部分を除いては。
『道は開ける』のある部分。
『悩み』の最終的な心の寄りどころは『祈り』であって『宗教』であるところ…。
・
・
・
(ん?何だこの本?宗教の勧誘なの??)
我慢して読み進みました。
(サラサラペラペラ)
何となく理解出来ました。
どうやら彼らの国の教育、文化の中央に位置するのが『宗教』のようです。
心にしっかりと揺るぎない柱があれば、人生の選択肢を誤らず、正しい方向へ進めるはず。
くだらない事で悩むことはないはず。
私はそう思います。
それを確立したいとも切実に思ってます。
その柱が『宗教』である事に、彼らは何の疑問も抵抗ない。
言い過ぎかもしれませんが、読んでそう感じました。
だって、そういう教育を受け、町の至る所にそのシンボルがあるんだから。
…寧ろそれが自然だよね。
つまり、極端な解釈ですが、『道は開ける』では、
その国に元々ある宗教をもう一度思いだそう!
そう訴えてる訳です。
それが絶対的なもので、信じるに価するものならば、柱に成りうるのかな?
でもね。
私は、一応無宗教国の日本人なんす。
それを心の柱にするのは、ちょっと抵抗あるんだよなぁ…。
そんな教育受けてないし…。
日本人はどーすんだ?
・
・
・
・
新渡戸稲蔵さん。
思い出しました。
「えっ!? ジャパンにゃ宗教ないんですかぁ〜!?。」
「じゃあ、ジャパニーズは子供達にどーやって道徳を教えてるんですかぁ〜!?」
と聞かれた稲蔵さん…。
「日本には『武士道』があるっ!!!」
って言い放ったて言うじゃないですか。
「ワッツ?ブシドー??」
注)実際の会話は違います。ニュアンスは間違ってないと思います
宗教とは違う精神文化で心の柱を構築していたんでしょうね、その当日の日本人は。
そういう教育があったって事でしょうね。
今はもうないのかな…それ。
ないね。でも…
こう考えてみることにします。
歴史の途切れる事のない時間軸を生きている私達。
過去の事実として『武士道』があったならば、どんなに廃れ、錆び付いているとしても、
同じ軸の延長上にいる私達であれば、つまりは日本人であれば、
それを磨き再び輝かせる事が出来るのでは…。
ゴシゴシ
で、それは揺るぎない柱になりえるんでしょうか?
綺麗に輝くのでしょうか?
シュウキョウ=ブシドーではない事は解ります。
しかし残念ながら私には、ブシドーの浅はかな知識しかありません。
とりあえず稲蔵さんの『武士道』でも読んでみようかな。
ディール・カーネギーの1900年代初期、ベストセラーとなった書籍で、
現代の自己啓発本の大元となっているものらしいです…。
読みました。
前者は、『人とのコミュニケーション』の方法を、実例を上げて非常に解り安く論じていました。
他人の気持ちになって考え、人を敬いましょう…と。
後者は、『悩み』の解決方法を前者と同様に実例を上げ簡単に。
差し迫った今日の事だけ考え、過ぎた事を悔やんだり、明日以降の事を思い悩んだりするのは止めよう…と。
非常にいい勉強になりました。
っても、読んだその日から自分が180度変われる訳はありません。
ふとした時に『ムムム…、こんな時には…』と、物事をふるいにかけるときの、良い網目になったり、
自分の言動の選択を助けてくれるんじゃないかなぁ…と思ってます。
ある部分を除いては。
『道は開ける』のある部分。
『悩み』の最終的な心の寄りどころは『祈り』であって『宗教』であるところ…。
・
・
・
(ん?何だこの本?宗教の勧誘なの??)
我慢して読み進みました。
(サラサラペラペラ)
何となく理解出来ました。
どうやら彼らの国の教育、文化の中央に位置するのが『宗教』のようです。
心にしっかりと揺るぎない柱があれば、人生の選択肢を誤らず、正しい方向へ進めるはず。
くだらない事で悩むことはないはず。
私はそう思います。
それを確立したいとも切実に思ってます。
その柱が『宗教』である事に、彼らは何の疑問も抵抗ない。
言い過ぎかもしれませんが、読んでそう感じました。
だって、そういう教育を受け、町の至る所にそのシンボルがあるんだから。
…寧ろそれが自然だよね。
つまり、極端な解釈ですが、『道は開ける』では、
その国に元々ある宗教をもう一度思いだそう!
そう訴えてる訳です。
それが絶対的なもので、信じるに価するものならば、柱に成りうるのかな?
でもね。
私は、一応無宗教国の日本人なんす。
それを心の柱にするのは、ちょっと抵抗あるんだよなぁ…。
そんな教育受けてないし…。
日本人はどーすんだ?
・
・
・
・
新渡戸稲蔵さん。
思い出しました。
「えっ!? ジャパンにゃ宗教ないんですかぁ〜!?。」
「じゃあ、ジャパニーズは子供達にどーやって道徳を教えてるんですかぁ〜!?」
と聞かれた稲蔵さん…。
「日本には『武士道』があるっ!!!」
って言い放ったて言うじゃないですか。
「ワッツ?ブシドー??」
注)実際の会話は違います。ニュアンスは間違ってないと思います
宗教とは違う精神文化で心の柱を構築していたんでしょうね、その当日の日本人は。
そういう教育があったって事でしょうね。
今はもうないのかな…それ。
ないね。でも…
こう考えてみることにします。
歴史の途切れる事のない時間軸を生きている私達。
過去の事実として『武士道』があったならば、どんなに廃れ、錆び付いているとしても、
同じ軸の延長上にいる私達であれば、つまりは日本人であれば、
それを磨き再び輝かせる事が出来るのでは…。
ゴシゴシ
で、それは揺るぎない柱になりえるんでしょうか?
綺麗に輝くのでしょうか?
シュウキョウ=ブシドーではない事は解ります。
しかし残念ながら私には、ブシドーの浅はかな知識しかありません。
とりあえず稲蔵さんの『武士道』でも読んでみようかな。
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